2025年の師走を迎え、不動産市場には奇妙な静寂と焦燥が混在している。「金利が上がれば不動産価格は下がる」という経済学の初歩的なセオリーを信じていた層は、いつまで経っても訪れない暴落を前に立ち尽くしているのが現状だ。
なぜ、教科書通りの調整局面が来ないのか。それは東京の不動産市場が、もはや日本人の給与水準や人口動態といったドメスティックな変数だけで動いていないからだ。
目前に迫る2026年、東京で進行するのは「バブルの崩壊」ではない。持てる者と持たざる者を分断する「市場の要塞化」である。本稿では、希望的観測を排し、コスト構造と地政学リスクという二つのファクトから、来たるべき市場の断絶を読み解く。
物理的制約としての「原価」
価格が高騰するメカニズムは、複雑な金融理論を持ち出すまでもなく、極めてシンプルに説明できる。供給サイドのコストが物理的な限界を迎えているからだ。
2024年問題として懸念されていた建設業界の労働力不足は、2025年を通じて慢性的な供給制約(Supply Constraint)として定着した。熟練工の賃金上昇、円安による資材輸入コストの増加、そして環境規制への対応コスト。これらはすべて「サンクコスト」として物件価格に転嫁される。
デベロッパーの論理は明快だ。原価が上がった以上、販売価格を下げることは株主に対する背信行為となる。彼らにできる合理的選択は、採算が合わないプロジェクトを凍結し、供給量を絞ることだけだ。市場に出回る在庫が減れば、当然ながら価格決定権は売り手が握り続ける。
「在庫が積み上がれば値下げせざるを得ない」という見方は、過去の遺物だ。大手デベロッパーの財務体質は盤石であり、かつてのリーマンショック時のような投げ売りを強いられる圧力はどこにもない。我々が直面しているのは、インフレという「新しい現実」によって、安価な住宅供給というシステム自体が破綻した世界である。
チャイナマネーの「合理的」な変質
東京市場を支えるもう一つの柱が、海外からの資金流入だ。ここでもまた、「中国経済が崩壊すれば、彼らは日本の不動産を売って現金を回収するはずだ」というナイーブな期待が裏切られている。
行動経済学的に見れば、彼らの行動は極めて合理的だ。中国国内の不動産市況が悪化し、政府による統制が強まる中で、資産を人民元だけで保有することはリスクでしかない。彼らが必要としているのは、リターンを生む投資先ではなく、資産を安全に隔離できる「避難所(Shelter)」である。
東京の不動産は、グローバルな視点で見れば依然として割安であり、何より私有財産権が法的に強固に保護されている。台湾有事のリスクが意識される地政学的緊張の中で、皮肉なことに、米中の緩衝地帯にある日本は、アジアにおける相対的な「安全資産」としての地位を確立しつつある。
2026年に向けて予測されるのは、投機的な転売目的の資金ではなく、長期保有を前提とした「資産防衛」目的の資金流入だ。この種のマネーは一度不動産に変換されると、容易には市場に戻ってこない。これが都心部の浮動株を極端に減少させ、価格の下方硬直性を強めることになる。
「グローバル価格」と「ローカル価格」の乖離
この構造変化がもたらす結末は、残酷なまでの二極化だ。
港区、千代田区、渋谷区といったプライムエリアは、完全にグローバル市場に組み込まれた。ここでは坪単価1000万円、1500万円という数字が、ニューヨークやロンドンの相場と比較され、「まだ安い」と判断される。購入者の競合相手は、隣の日本人サラリーマンではなく、シンガポールや台北の富裕層だ。
一方で、実需頼みの郊外エリアや、駅からの距離がある物件は、金利上昇の向かい風をまともに受けることになる。日本の平均賃金が劇的に上昇しない限り、ペアローンで限界まで借入を行っている中間層の購買力には天井があるからだ。
結果として2026年に現出するのは、流動性を持ち続ける「グローバル資産としての東京」と、緩やかに流動性を失っていく「ローカル資産としての東京」の決定的な分断だ。
流動性という名の「自由」を買う
不動産市場において「平均」を見ることに意味はない。全体が上がっているか下がっているかではなく、自分が所有する(あるいは購入しようとしている)物件が、どちらの市場に属しているかを見極めることだけが重要だ。
もしあなたが資産形成を考えるなら、表面的な利回りの高さや、「広くて安い」という甘い言葉に惑わされてはならない。不確実な時代において最も価値があるのは、いざという時に即座に現金化できる「流動性(Liquidity)」だ。
無理をしてでも都心の一等地に旗を立てるか、あるいは不動産というゲーム自体から降りて金融資産に特化するか。中途半端な妥協が最も高い代償を払わされることになるのが、2026年という年になるだろう。
(松島剛)